エゴと命
生存者のエゴによって生かされる人間を見た。
人工呼吸器をつけ、鼻から栄養を送っているらしい。点滴を常に2本、手の甲は内出血で鉛のような色になっていた。
片手にはミトンをし、自由からかけ離れた生活を余儀なくされている。
目の前で横たわっているこの老婆は、87歳で、私の祖母にあたる。
母親が祖母の肩を叩き、「お母さん、起きようか」「喋ってみようよ」などと声をかける。
母親と私は祖母と同居しているにも関わらず、祖母に対して敬語を使わないことがなかった。祖母は品があり、したたかで、優しく厳しいとても立派な人だった。定年退職時には小学校の教頭先生を勤め上げた。
そんな祖母が、母親に赤ん坊のように声をかけられていて泣きそうになった。
祖母はもう無理しなくていいんだ。無理して生きなくていい、十分生きたんだ。そんなことを考えていると、私はどう祖母に声をかけるべきなのかを見失った。
脳出血で突然倒れた父方の祖母は意識があるのかないのかわからない、寝たきりの状態になって3ヶ月が経とうとしていた。
その時父は亡くなっていた。祖母が倒れているのを発見した母親は、気が動転して、東京に住む私に泣きながら電話をよこし、今すぐ戻って来てくれ、どうしたら良いのかわからないと言った。
すぐさま新幹線に乗り込みタクシーで病院に向かう。祖母が発見されて3時間は経っていた。
ぐしゃぐしゃに泣き噦る母親を見て、しっかりしてよと思わず呟くと、聞こえてしまったのか、もっと泣いた。
延命、という言葉の裏にネットリと張り付いたエゴがそこにはあった。
医者に「持って3日です」と説明を受けた母親は子供のようにしゃっくりをあげ大号泣した。医者は私を見て「お母さんのことよろしくね」と言い、当たり前のようにその場を去った。人が死ぬ時、必ず死にかけるんだ。当たり前のことなのだ。
延命しますか、という書類を渡されたのは山だと言われていた3日が経った後で、人工呼吸器をつけますか、栄養を送りますか、何やらそういう内容だったらしい。
私はその書類を見てない。母親が署名して提出したのだ。
それから祖母は先の見えない人生が動き出した。本人はどう思っているかわからないが、少なくとも私は悲観した。
以前、仕事で医者に延命についてインタビューをしたことがあった。匿名で何でも話すと言うその先生は、
「老人ははっきり言って未来が明るいわけではない、医療は年老いた者にではなく、若者の未来のために発揮されるべき。老人は医療費を10割負担すべきだと思う。特に寝たきりになった老人は未来すらない。回復の見込みがない、そういう老人たちは本当に生きたいのか。家族の悲しみを小さな命で全て受け止めて、不幸だとすら思う。」
そんなことを言っていた。
本当にそうだと思った。
人はいずれ死ぬ。
祖母に無理しなくていいよと言いたいが、母親が側にいて言えなかった。
母親は今日もバシバシと祖母の肩を叩き、大声で話しかける。
いつか母親が死ぬ時に私は同じことをしてあげられるのだろうか。
母の気持ちも痛いほどわかる。これから田舎でひとりぼっちで暮らすことになろうとしているのだ。
母親は嫁に出て、私よりも長く長く祖母と暮らした。父親を最愛の人として選んだ母親は、父の母である祖母に対する感謝も、底知れなかった。
そんな祖母が目の前で突然手のかかる人形のようになってしまったのだ。
いくらでも手をかけたい、母親がそう思うのは自然過ぎた。
私は祖母に死んで欲しいと願っているのだろうか。
これもエゴなんだろうか。
生存者のエゴをまとって、祖母は今日も苦しそうに生かされていた。
毎日、生きることを切望され、生かされていた。
幸せなのかどうかは全くわからなかった。