野良の出来事

目ヤニまみれになった私の目頭を拭って、「捨て猫みたいだなぁ」と言ってきたので腹が立った。違う。捨てられたんじゃない。私は自分で自由を選んだのだ。

昨夜はよく酒を飲んだ。ビールもレモンサワーも日本酒もシャンパンも飲んだ。ひどい飲み方だった。バーを3件ほど梯子したらぐちゃぐちゃな飲み方になった。気付いたら朝の4時で、気付いたらよく知らない男の家で目が覚めた。

男は身体の隅々までタトゥーが入っていた。男についての記憶を辿ると、3軒目のバーで「その腕のタトゥー、どういう意味なんですか」と私が話しかけたのだ。驚かないでね、と笑いながら「特に意味はない」と答えられたので、なんかこの人好きだなと思った。デザインがよくてさ。そう楽しそうに話す男は無邪気で、酒のつまみに大変良かった。

私はタトゥーについて無知だが、腕に掘られた水滴の王冠のタトゥーはとても綺麗だった。腕をまくったパーカーの袖から覗いた水滴は、薄暗い照明の中でも透き通っており、私の心をつかんだ。意味がないことを含めて、私を魅了したのだった。

それから色々と話をして、家が近いからうちで寝ていきなと言われたのでついていった。古いが広く、よく手入れされた家だった。そして、和室に置かれたシングルのコイルマットレスに二人で倒れこむように眠った。目がさめると化粧を落とさず寝たことや花粉症もあり目頭がゴミゴミとして思わず顔をしかめた。ここはどこだろうと一瞬思ったがすぐに悟った。タトゥーの人の家か。あたりをキョロキョロしていると目ヤニまみれになった私の顔を男が拭った。私は捨て猫じゃない。捨てられてない。拾われてもない。自分で選んでここにきた。記憶の断片を寄せ合めながらそう思った。この人のタトゥーを少し見たいと思った。それだけのことだ。


私は野良になって2年が経った。誰かに飼われることを憎み、恐れ、時には憧れながらも拒絶して生きてきた。そのタトゥーに意味がないように、私の生き方にも意味がない。意味がないことが、どれだけ尊く、一番の理由になり得るかを私は知っていた。

適当に抱かれてしまうくらいなら帰ろうと思い、帰り支度をすると次いつ飲むの?と聞かれたので、気が向いたらと答えたら笑われた。男は身長が高く、髪が長かった。仕事はアパレルのデザイナーだとか言っていた気がする。嘘かもしれないし、記憶が定かではない。ただ、もう会わないと思う。また同じ街のどこかでバッタリ会った頃には、もう忘れてしまっていると思う。


その男のことは、掘られたタトゥー全てに意味がないことしか知らない。それだけ知れればもう良かったのだ。顔の輪郭や声、会話の内容がひとつひとつ泡が弾けるように消えていく。それで良い。知ってしまうとまた、悲しい思いをするから知らなくていいのだ。