父親が死んで

父親が死んで1年が経とうとしていた。

 

富山に向かう北陸新幹線は足元が冷える。日が沈むことで気温がすっと落ちているようだ。

 

父が体調を崩したのは去年の正月あたりだった。卒業を控えた私は浮かれていて何も気に留めていなかった。念願の東京だ。運や神、会社に感謝した。引っ越しの手伝いに来た父と母は娘のそれを嫌な顔ひとつせずにこにことやってのけた。父の咳、父の吐く痰、何気ない日常の一瞬で私も母親も町医者は卒業して大きな病院行ってささっと治しなよなんて軽口を叩いていた。社会人としてはじまる未来に期待と自信に溢れていた私にとって、父の不調はとても小さすぎる変化だった。

 

ガンだとわかったのは、入社式の3日ほど前だった。母親から、話がある、電話がしたいとLINEがきた。嫌な予感はあった。私は環境が変わりはじめたばかりで事実を飲み込むのに時間がかかった。父の病気を知る。それがいかに重い病気でどれだけの費用がかかり、富山で暮らす家族に影響があるのか計り知れなかった。詳しい検査は後日とのことで不安や憶測、ネットの情報に振り回されて唖然とした。父の件もあり、環境が意思に追いつかず、会社の研修も身に入らず、ただ自分はどうすべきなのかを必死に思い巡らせていた。なにが最善なのか、子供として、何ができるのか。

 

検査の結果、父の病気は手遅れだった。余命は?という言葉を発するのに3ヶ月はかかった。母もわからないけどねなどと言いながら濁すように教えてくれた。余命を聞くまでの3ヶ月の間もなんとなく、病気に蝕まれていくのを時間というベルトコンベアの上で耐えていくことになるだろうと思った。

 

流れ行く時間が刻一刻と進み、母と父の闘病生活は静かに過ぎていった。私の知らない所で母は幾度となく泣いたと思う。月に一度帰省しては私はただただ、明るく振る舞い二人を元気付けようとした。月に一度顔を合わせる父がびっくりするほど弱っていき、痩せこけていくのを見るのは私も限界だった。

 

ある日、母は父の人相が変わったと言ったことがあった。病院に行った帰り、車の中であんな鋭い目をする人じゃなかったと泣いていた。私は窓から眺める景色を見ながら東京と違って田舎は暗くて静かだと思っていた。私たち家族がこのあたりで一番に不幸だなとも思っていた。

 

父の目は鋭いのに、その瞳に反射した世界は幻のような、偽物のような、生暖かい病院風景だった。

そんなことを考えていると、穏やかな自然がよりいっそう自分たちが不幸だと思わせた。真夜中の国道は私たちの車だけが走っていた。

 

病気になって父は口々にありがとうと言った。不器用な父が感謝の言葉を口にするのは珍しかった。死期が近づいているのを思わせてとても苦しかった。

病状が悪化し投薬も増えた。父はずっと眠り続け、苦しそうにもがいていた。意識が戻ったと思えば「つらい」と呟きモルヒネを打ってはまた深く眠っていった。つらい、つらい、つらいと何度も言った。つらいという言葉以外は発しなくなった。健康な身体と魂が尽きていくのを見た気がした。まるで、感謝や愛情が枯れていくようだった。

 

 

2016 9.22 帰省する新幹線の中で