優しさについて

優しさについて考えることがある。

私は生きてきてこの方、専ら偽善者であり、自分以外の誰かに何かを尽くす際にとりわけ苦労する。

まるで、自分の中の優しさという奥深い井戸の水を必死に手で組み上げるような感覚がある。それは非常に面倒がかかるし、何より疲れる。

 


ごく稀に、その井戸水が勝手にじゃんじゃん湧き、吹き出しているような人間や、それはそれは立派な汲み上げポンプを有している人間がいる。

誰に対しても平等に親切で、優れていると褒め称えられるような人間だ。

そんな人間から親切にされた時、私はその水を手で払いのけ、桶を蹴飛ばし、最悪、殴りかかることだってある。


いつだって優しさは切り売りで、与えられた水を返さなければいけない。そういう糞食らえな暗黙のルールが存在してしまう。

いつも、「それはタダで配ってんのか?」とひっそりと問う。ハイ、と答えた人間が後になって返せと騒ぐこともあるから、いよいよ受け取るのをやめた。とくに、ポンプをせっせと動かしている類の人間に多い。こいつらは詐欺師だ。ついでに言うと、湧き出して収拾がつかない類の人間は、馬鹿が多いので深く関わりたくない。厄介ごとに巻き込まれることが多いのだ。気をつけた方がいい。

 


私の優しさの井戸水はめったに誰かに与えたりしない。残念ながら、自分でゴクゴク飲む分しか用意してないからである。

頼まれごとをした時だって、基本的に損得勘定だ。あなたにもメリットがあるし、私にもメリットがある。そう納得してから引き受ける。

 


この考えが何かの拍子にバグり、井戸水を盛大に振る舞うようなことをすると、間も無くして井戸の水が干上がってしまう。干上がると、最悪死ぬ。具体的に言うと鬱になったりする。心が水分を失って枯れ朽ちるのだ。

心が干からびた時に、ふと水を差し出されると、それがどんな水だろうと手を出して必死に求めてしまう。多分人間はそんな風な仕様になっている。おそらく、生死を分ける選択は反射神経しか使わない。

 


それで先日、運悪く詐欺師の水売りからたんまり水を買い込んで、もういらないと言うと、今までの分を返せと言われ、本当に苦労した。詐欺師は自分の井戸水が干上がりかけているように見せかかってきた。そんな手口には乗らない。

 


いつだって優しさにはある価値がついていて、うまく、取引されている。ビジネスだ。

少なくとも私はそう考える人間なので、偽善者とあらかじめ言いたい。

 


先程、コンビ二で4円お釣りがでた。

私はそれをレジ脇の募金箱に雑に放り込む。

 


小銭入れがパンパンだったからだ。